「文化の日」ということで、「『香り』という病」にとりかかる前に、日本酒の文化と嗜好との関係について。
「何だかんだ言っても要は旨ければいいんだよ。」
初心者であっても経験を積んだ方であっても、お酒を消費する立場の人すべてが使うことができる大変便利な言葉です。
日本酒業界のほとんどの造り手や売り手はこの言葉に対する防御策を持たず、言われるとオロオロしてしまうように見えます。
ワインの世界では許されなくても、日本酒の世界では易々とこの発言が許されてしまう。
発言の自由さが日本酒のいいところでもあるのですが、日本酒文化の深化につながる言葉でないように感じています。
それでは、先の発言に対しどう対応すればいいのか?
どんな文化にも体系があり、体系を知ることなしに文化を語ることはできません。
「文化」とは美意識の共有が歴史を経て「型」として成立したものを指します。文化の中には物事のモノサシが出来上がります。
日本酒の味で言えば、「五味の調和」が取れた状態を日本酒の最上の姿とします。「甘・酸・辛(もしくは旨)・苦・渋」が一体となって、さりげない姿になる。これは日本人の美意識の投影であるような気がします。
これとは反対に、個々人の味覚の現れと好みは「嗜好」ということになります。
当然、文化と個人とはモノサシの尺度が異なるわけで、文化と嗜好の間では、「まずいはうまい、うまいはまずい」ということが常に起こりうるわけです。
文化の中での「うまい」が、個人のモノサシでは「まずい」ということがある。その逆もまたしかり。
人は「うまい」と信じるではなく「うまい」と感じます。「うまい」という主観は信念ではなく「訪れ」です。自分の意思で動かせるものではありません。
日本酒を覚えたての人は、「香り」「甘味」があると「うまい」が訪れやすいようです。
このことは幼少の頃に味覚と言葉を覚えた経験からもたらされたものだと思います。
離乳食や甘いジュースを口にして最初に覚える言葉が「甘い」であり、その時の身体的要求が充足されたときにもたらされる満足感が「うまい」であったわけです。
「甘いはうまい」は人間の味覚における冒険のスタートなのです。日本酒においても同じことが言えるようです。
しかし、「甘いはうまい」が「甘いはまずい」になりうるのが人間の味覚の面白いところなのです。
人は「ありのままの味」を楽しむ段階から、食だけでない様々な経験をすることで「味の周辺」をも楽しむようになります。そうすると、「甘い」=「うまい」だけでない、より精神的な「うまさ」が見えてくるようになります。
修練により、一見、虚無的な味に色づけできる能力が備わってくると、「まずい(一般的な嗜好で見た時)はうまい」が「信じる」のではなく「訪れ」によって告げられます。
我慢ではなく、「甘いはうまい」と同じ「まずいはうまい」にも身体的快がやってくるのです。
「甘いはうまい」が本能的欲求の充足とすれば、「まずいはうまい」は精神的欲求が充足し身体化した姿と言えます。
「この甘さは何のための甘さなのか?」文化的な意味付けを見出すことができない「甘さ」に対する嫌悪感から、「甘いはまずい」にもなりうる。
「ありのままの酒」の姿を体験できる人はいない。それぞれの経験・程度・尺度で切り取りした酒の姿を見ているだけです。
日本酒を正しく評価するには、文化を知り、審美眼を養う必要があります。
ですので、先の発言の「旨ければいい」というのは自己満足の範囲でしか通用しない言葉であり、全然恐れる必要がありません。
ただ、文化の洗練は退廃と隣あわせです。嗜好との摺り合わせにより、再検証する作業を怠ってはいけませんので、どんなレベルの人の意見であっても、その意味を汲み取る努力は必要です。
以上、わがまま店主の日本酒の味覚文化論でした。
本日、火曜日ですが営業しています。雄町しております。
最近のコメント