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2009年6月12日 (金)

君命も受けざる所あり

今から65年前。

昭和19年6月。

インド北東のインパールを攻略する目的の「インパール作戦」が遂行されておりました。

牟田口司令官の独断と専攻で始まったインパール作戦。

不測の事態を想定しない、兵站無視の必勝の信念だけで作戦を押し通そうとした無謀な戦いでした。

それでも第15軍第31師団「烈」は勇猛果敢にコヒマまで攻め込んでおりました。

しかし、武器の補給どころか食糧の補給すらない状態.。兵士たちは飢えとマラリア・赤痢などの病気で苦しんでいました。

そんな中、第15軍の司令官牟田口廉也中将は、激戦区から遠く離れた避暑地からコヒマ死守の命令を出すのみ。勤務時間の5時を過ぎれば料亭に繰り出し芸者と戯れる毎日。

アホな杜氏が酒を造ると酒がまずくなる程度で済みますが、アホな司令官が軍を指揮すると大勢の人間が死ぬのです。

佐藤中将の怒りは限界に達しました。

「このままでは全滅してしまう。弾薬・食糧のあるところまで撤退せよ!!」

この命令違反の行動によって第31師団烈、1万数千人の部下の命が救われることとなります。

これが日本陸軍史上初となる師団長レベルでの命令違反「抗命事件」でした。

その後、インパール作戦は中止となりましたが、撤退には困難を極め、退路は死屍累々とし、「白骨街道」「靖国街道」とも言われるほど悲惨な状況だったそうです。

人的損害は甚大で、戦死者3万2千人、戦病者4万人以上を出しました。

インパール作戦を指揮した牟田口中将は、司令官を更迭されたものの、日本国内に戻り、陸軍予科士官学校校長となり、戦後も自己弁護をし続け、一切の謝罪の弁もなかったそうです。

死んだ兵士が浮かばれないですよ、これは。

「抗命事件」を起こし、多くの部下の命を救った佐藤幸徳中将は山形県庄内町出身。

佐藤幸徳中将の名は、先日、川西町の舩山達郎さんから伺ったことで知りました。

インパール作戦の前に川西町(旧・吉島村)にお忍びで訪ねてきたことがあり、来訪の理由を調べているうちに面白い事実が判明したのだそうです。

川西町にかつて恋した女性がおり、お墓参りに来たのではないか、と推測しておりました。

昨年には、インパール作戦を生き延びた方々(四国の方が多いそうです)が「追慕の碑」がある山形県庄内町の乗慶寺に集まり、佐藤幸徳中将を偲んだそうです。

2月にはイギリスBBCの取材が庄内町に訪れました。

今まで、こんな人を知らずに過ごしていたとは・・・、本当に恥ずかしい思いです。

寒河江善秋氏は”戦友の遺骨をできるだけ日本に持ち帰りたい”と「半遁世」で申しておりましたが、国はインパールに残された遺骨を収集する努力をしてきたでしょうか?

この梅雨の雨が、遠いインド・ビルマから運ばれた、お国のために戦い命を落とした多くの人達が流した涙に思えてきます。

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