日本酒の功労者

2009年8月13日 (木)

和釜魔店主の逆襲

わがまま店主。

ひらがなではちょっと頑固な酒にこだわった店主程度の印象しか与えていないことでしょう。

しかし、その本性は・・・和釜魔!

現代酒造技術を盲信してきた皆さんにとっては、ひぇ~ですよ。

忘れてきた酒造技術の中に眠っていた真実。

酒造の根本は「蒸米」であるということ。

限定吸水による管理だけでない旨味のある蒸米の仕上げ。

その源流にあるのが、山形県鶴岡市出身の鑑定官「中村政五郎」であり、宮城県出身の鑑定官「鹿又親」の教えでした。

前者の教えは灘の酒造りへ多大な影響を与え、後者の教えからは「有松嘉一」を経て「上原浩」へと受け継がれました。

大東亜戦争の戦局の悪化に伴う混乱のもと、これらの酒造技術は経験として受け継がれた蔵もありましたが、表立った理論としては、ほぼ忘れられました。

蒸きょう設備としての「和釜」は、優れた蒸米となる構造であり、旨味を最大限に引き出すことが出来る設備だということが私の経験からも実感することができました。

福島の「大七」さんでは新社屋を建てる際、「和釜」にこだわり、竈(かまど)と巨大な煙突を新たに作り直しました。

福島の「大七」さんは、名杜氏といわれた伊藤勝次杜氏が、灘の辰馬本家酒造(白鹿)に通いつめ、生酛の技法を習得し、その時に「生酛づくりの最後の総帥」と言われた辰馬本家の「井上貞三」技師長に「蒸米」の重要性を叩き込まれたようです。

井上貞三氏は中村政五郎氏の薫陶を受けた一人。

さらに後年、上原浩氏が伊藤勝次杜氏と出会うことになる。

「中村政五郎」と「鹿又親」の教えの融合。

「和釜」を手放すわけがありません。一時、ボイラーによる縦型連続蒸米機を導入したらしいですが、すぐにやめたと聞きます。

なぜ、「完全なる蒸米(旨味のある蒸米)」の重要性(限定吸水だけでない)が忘れられたのか?

これは一つの仮説なのですが、造り手に苦味の感受性がある人とない人がいて、苦味の感受性のない人にとって見ると、この蒸米の旨味というものが理解できていなかったのではないかと。

蒸米の蒸し方が甘いと蒸米に苦味が残ったままです。そうすると、酒に苦味が移るのです。

皆さん、ほとんどの日本酒は苦くありませんか?

苦味の感受性がない造り手は、苦味を感じなくても、飲みづらさを感じるようですので、グルコースの甘味でカバーするようになります。さらに、カプロン酸の苦味・エグミを感じないようで、高香気性酵母(プンプン系のもと)を安易に使用する・・・。

しっかりと、味の評価が出来る人を選抜しプロの技術者として養成していくこと。

このことが「日本酒復権への第一歩」だと思います。

最後に一言、

「とはいえ、日本酒は純米酒に戻らなければならないと考える」

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2008年10月30日 (木)

マニアック企画!次回の菊姫ライブラリーを予測する

菊姫ライブラリー。

次々と歴史的酒造技術書を復刻しています。

しかし、古本収集家にとっては敵!

復刻をすると価格が下がってしまうんです・・・。別に転売目的じゃないんですけども、値段が下がるのを見るのは面白くないですね。

でも、これらの名著を読むことで、現在の酒造技術の見直しができるようになった意義は大きいです。

本日は、菊姫さんだけいいかっこしているのを黙って見ているのも癪なので、次回の菊姫ライブラリーを予測します!

Photo 候補第一位は・・・、「最新 清酒醸造法(増補再版)」(大阪税務監督局編)(昭和10年)!!

この本の前身は「酒造乃心得」(日本醸造協会近畿支部編)で、平成元年に上原浩氏らによって復刻されたことで知られます。

Photo_2 「酒造乃心得」って、どこかで見たことがあるような?と思った方は、記憶力が良い方です。尾瀬あきらさんが書いた「奈津の蔵」で、奈津が酒造りを覚えるために読んでいた本です。

「最新 清酒醸造法」は、初版が昭和9年。

昭和9年と言えば、竪形精米機、琺瑯タンクが既に現われていましたので、高度精白の吟醸の形が見られます。

大阪税務監督局内と言えば、当時の酒造りの本場、灘地区がある所。酒母の「生酛(きもと)」の項目は充実しており、こだわりを感じます。

酒造りの従業員向けに配布された本なので、行間も広く読み易いのが特徴です。

「生酛」回帰志向が進んでいる現在にうってつけの酒造技術書です。

ちなみに、「最新 清酒醸造法」の発行代表者名は、金井春吉氏であり、この人物は、生酛系酒母の早湧き防止と亜硝酸生成との関係の研究で知られ、亜硝酸1ppmをブレーキ1度と呼ぶことを提唱した人物として知られています。

候補第二位は・・・、明日のお楽しみということで。

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2008年10月28日 (火)

「酒造総典」を読む

今月、菊姫ライブラリーから芝田喜三代著「酒造総典」が出版されたそうです。

今まで菊姫ライブラリーから出版された本の著者は、江田鎌治郎、小穴富司雄らのビッグネームでした。

今回は芝田喜三代氏。

正直、上記の2名に比べ、小物感があります。

ただ、「酒造総典」は読み易く、酒造技術史を知る上でためになる面白い本です。

芝田氏は、蒸米の重要性を説いた東京税務監督局鑑定官の後身、東京国税局鑑定官室所属だけあって、「蒸きょう(蒸し)」の項目は充実しております。

「一、酒造において浸漬米を強い蒸気で蒸して、弾力があって且つ『しっかり』した完全蒸し米を造ることを『蒸きょう』と云う。

二、健全な酒は完全な蒸米から、と云われている通り、良い蒸米を得ることが酒造の第一歩であって、酒造の大勢を決定する。

三、蒸米は外が硬く、内部が軟らかく蒸せていることが第一の条件である。」(p.84,85)

これを読んだだけで信頼に値する本だと思ってしまいます。

蒸し時間は硬質米や濃厚な酒を望む場合、80分以上蒸すことを勧めており、増醸酒(三増酒)の原もろみの蒸米の蒸し時間も80分間くらいが望ましいとしています。

但し、吟醸の蒸し時間は40分程度が良いとしています。

昔から、吟醸は、蒸し時間が短いほうが良いとする意見は多いのです。

これはなぜなのか?

私の考えでは、良く蒸すと味が濃い味となり、きれいな味が尊重されたかつての吟醸に合わなかった、ということだと思います。

現在のグルコース濃度が高い吟醸には、蒸し時間が長いほうが向いているような気もするのですが。

蒸米の話は、まずはここまでにしましょう。

面白いのは、芝田氏の吟醸酒についての考えです。

吟醸酒は、市販酒として販売すべきではなく、むしろ市販酒に吟醸香はいらない、とする立場を取っております。吟醸香は珍しいから「さわがれる」のである、と。

誰しも酒の覚え初めに、吟醸香のある酒に驚き、これが良いものだ、と刷り込まれ、有難がりますが、数をこなすうちにむしろ吟醸香などないほうが飲み飽きせず飲めるようになるものです。

そもそも「吟醸香=良い酒」という図式は、伝統にのっとった味覚でもなく、本能的なものではなく、わかりやすい初歩的な味覚(甘味とか果実香)に珍しいから「さわいでいた」だけではなかったのではないでしょうか?

同じ目標に向かって吟醸を造ることは造り手にとって技術研鑽として意義はあっても、出来た酒は飲み手にとって最高の酒質である保証はないのです。

むしろ、造り手は現在の出品酒は飲める代物ではない、という認識でありながら、金賞を獲りに行くためしぶしぶ、高い香りの出る酵母を使用して大吟醸を造っているのです。

ただ、酵母の選択を誤らなければ、高精白の良さに伴って、飲み易さ、品の良さ、が向上することは間違いないので、酵母の選択というのは重要であると考えます。

戦前から、吟醸批判、鑑評会批判というのはあって、批判の対象は違えど本質は変わっていないんですよね。

ここに歴史から学ぶことの必要性があります。

菊姫ライブラリーは酒造技術書の歴史的名著を次々出してますので、酒造技術者ならばぜひ読んでいただきたいシリーズです。

菊姫ライブラリーは高いって?

いや、私が古本屋から買った労力と本代に比べれば全然安いものです。

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2008年8月31日 (日)

蒸米重視派による戦前最後の酒造技術書

昭和初期に発生した「蒸米」を重視した酒造りの二大潮流。

一つは、鹿又親鑑定部長が率いた東京税務監督局鑑定部

ここからは、上原浩氏の師であった有松嘉一氏や平岡満一氏、杉山晋朔氏らを輩出しました。

もう一つは、中村政五郎

中村政五郎氏は丹波杜氏への影響力が強く、昭和5年に「蒸米から見た酒造」が出版された後には、灘の蔵元では、こぞって釜を大きくするといったように灘の酒造りへも影響を与えました。

そんな中、別の流れで、蒸米バカ技術者ともいうべき人物が登場します。

その名も「小出治彦」。

戦後に、岡山県で酒造りの指導に当たった小出巌氏の父。

戦前に最も評価の高かった酒米、赤磐雄町を産出した岡山県の工業試験所の先生です。

小出氏が昭和15年に今野商店出版部から発行した「経済酒造法」は、蒸米重視派による戦前最後の酒造技術書です。

Photo_2 この表紙がまた素晴らしい!

仕込桶の向こうに大海原。海に浮かぶ船は軍艦?あるいは輸送船?想像をかきたてられます。

第二章の「蒸きょう」に60ページ!を費やすという熱のいれよう、素敵です。

小出氏の主張するところは、蔵癖と言っているものの正体は蒸きょう方法の欠点にあり、ということです。

釜の容量、コマの規格、蒸気圧、蒸気温度、蒸きょう方法についての記述は、他の酒造技術書を凌ぐ細かい指示があり、確信に満ちています。

しかし、この本の記述には、現在の酒造には見られない謎があるのです。

同じく蒸米にこだわった杉山晋朔氏も首をかしげた謎については、後日ということで・・・。

とにかく、この本には、金言の数々がちりばめられているんですよね。

その一例として、

「製麹法のみに重点を置くより、蒸米の仕上げに重点を置き、理想の蒸米を造ったならば製麹は予想外に楽であって又糖化の持続性を発揮するものである。」

「毎日病気の治療に専念するより健康で明朗の日を送ることを研究した方が一番幸福でないかと思う。麹の病気直しよりも其前から病気の起こらぬ蒸米を造ることを研究しなさい、病気なんか考えずに健康増進を考えて置きなさい。」

「病気の起こらぬ蒸米」つまり「完熟蒸米」とは何であるかについても詳しく書いてあります。

この本が出版されたのが、昭和15年。

アルコール添加が始まる3年前のことでした。

本の名前が「経済酒造法」という名前なので、顧みられることがない酒造技術書ですが、酒造技術書の中でも著者の熱い思いが伝わってくる読み応えのある名著だと思います。

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2008年7月24日 (木)

蒸きょう第一主義

昨日からの続きとなります。

「蒸米から見た酒造」は、決して「テム・レイの回路」なんかではありませんでした。

中村政五郎氏の「蒸米から見た酒造」を読み、激しく同意した人物がいました。

東京税務監督局鑑定部長の鹿又親(かのまたちかし)氏です。

ほぼ同時期に東京税務監督局管内において「蒸きょう第一主義」を標榜し、「蒸米の完全」を指導していたのです。

「蒸米から見た酒造」を読んだ鹿又氏は、「吾人は百萬の見方を得た心持がした」と言っています。

西の中村政五郎、東の鹿又親。

「櫂でつぶすな麹でとかせ」

鹿又氏は、この有名な言葉の発案者です。

酒造の根幹が「蒸米」にあるとする考えの二大源流。

「一に蒸し、二に蒸し、・・・」で知られる故・上原浩氏の師匠は、鹿又親氏の門下生の有松嘉一氏ですので、鹿又親氏の孫弟子ということになります。

余談ですが、戦前の造りに関して上原氏に質問したところ、「あんたは良く勉強しておる!」と言ってうまく逃げられたことを思い出します。戦前の造りをあまりご存じないようでした・・・。

東京税務監督局内では、「酒造工人必携」、「酒造工場管理法」などの実践的酒造技術書を毎年のように改訂・増補を繰り返しており、酒造技術が日進月歩で向上していた様子が見られます。

しかし、昭和14年に山形で行われた酒造大会直前に鹿又氏が急逝し、戦況の悪化により、精白制限、企業整備、アル添などが行われ、「質より量」の時代が到来し、造れば売れる時代が到来したことで、この「蒸米」を根幹とした酒造りは忘れ去られることになります。

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2008年7月23日 (水)

「明け取り式」は「テム・レイの回路」だったのか?

なぜ中村政五郎氏は自費出版という形をとってまで、旧式となっていた「明け取り式」を推奨したのか?

もう一度、「煮え取り」と「明け取り」の違いを説明します。

「煮え取り」とは、検蒸後、すぐに甑から米を取りだすという、現在行われている方法です。現在では、「煮え取り」という言葉が存在しないほど、当たり前の方法なのです。

これに対し、「明け取り」は、「夜中甑」と呼ばれた午前3時に甑から蒸米を取りだす方法の際、夜が明けるまでそのまま蒸米を甑に置いてから取り出す方法を指します。

両方の用語が出てくる文献として、「蒸米からみた酒造」が出版された約12年前、大正8年に熊本税務監督局内、鎮西税務研究会において発行された「通俗 清酒醸造法」があります。

時の熊本税務監督局鑑定部長は中村政五郎氏です。

さすがに中村政五郎氏の指導下にあっただけに「蒸きょう(米を蒸す工程)」の項目は詳しいのです。

しかし、「明け取り」に関して、避けるべき方法であるとし、「極めて無頓着な原始的醸造場の外は採用していない」と厳しい評価を下しています。

約12年間に何がおこったのか?

「日本酒復権への第一歩」で、野白金一氏との論争に敗れた話をしたことがありました。

ヒントはここにあります。

これが大正8年(?)に起こった「世紀の大論争」。「膨軟麹」と「硬縮麹」の論争でした。

この時は、野白氏の「硬縮麹」に軍配が上がりました。

酒造りの本場、灘の丹波杜氏集団から神様の如く尊敬されていた中村氏のプライドはズタズタにされたことでしょう。

いままでうまくいっていた「膨軟麹」の何がいけなかったのか?

灘地区と九州地区の米質の差、技術水準の違い、気候の違い、様々な理由があったと推測されます。

その中で酒造りの根幹とは何か?を自問した結果、失敗に学んだ中村氏の結論が「蒸米」だったのでしょう。

技術的な改善方法として、「明け取り」という忘れ去られた手法を蘇らせ、硬く蒸して熟まして軟化する、「硬蒸熟軟式法」を編み出しました。

当時の常識では考えられない方法だったので、活字にする必要があったのです。その使命感が素晴らしいですよね。

別に私利私欲のためではなかったのです。

「蒸米からみた酒造」

この本を受け取った人の反応はいかなるものであったのでしょうか?

理解できなかった人は、「こんなものを・・・」と言って、捨ててしまったかもしれないですね。

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2008年7月 3日 (木)

文壇酒徒番附

今朝の朝刊で、佐々木久子さんの訃報を知りました。

佐々木さんは雑誌「酒」の編集長として知られ、早くから日本酒のロマンを伝え続けた人物でした。

ご本人とは、酒蔵に遊びに来た姿を一度見ただけでした。とても元気な人だった印象があります。

さて、タイトルの「文壇酒徒番附」とは、雑誌「酒」に昭和31年から昭和50年まで毎年新年号になると載っていた、作家の酒の飲み方のランク付けです。

この番付が発表になると、作家たちは心中穏やかではなかったようです。

「酒は人生の花」と作家 尾崎士郎は言っていたように、多くの人にとって、酒は人生とともに歩んでいく重要なアイテムでありました。文士たちにとっては、酒飲みの風格=人間の器量、くらいの認識があったのではないでしょうか?

「文壇酒徒番附」が終了した昭和50年は、日本酒の消費量が曲がり角を迎えた時期と同じです。娯楽の多様化、ライフスタイルの変化が起こった時期だったのでしょう。番付をつける意義を失ったのかもしれません。

また、昭和50年前後と言えば、三増酒を糾弾し、ほんものの酒を啓蒙する動きが出てきたことも見逃すことはできません。

三増酒を糾弾した梁取三義氏による佐々木氏の評価

「(前略)多分に、タレント性があり、女性で得もしているだろうが、酒を普及させた功績は見逃せない。ただし酒についての間違いも見逃すことは出来ない。功罪をいえば、功のほうがはるかに上回っている。著書は歓迎されている。」(「日本酒大事典」より)

ちなみに、梁取氏自身も酒に関して間違った記述をしているので、お互い様のように思えるのですが・・・。

ともかく、ほんものの酒が日本酒を救う、というように言われて、30年以上なります。

戦後の酒飲みの事情を見てきた佐々木久子さんには、今後の「日本酒復権」の道筋は見えていたのでしょうか?

あらためてご冥福をお祈りいたします。

参考文献

「物議を醸した文壇酒徒番附(佐々木久子)」 「酒と日本文化」(岩波書店)1997年

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